吉武遺跡群
(福岡市西区)
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File No.150525


高木遺跡
今年も「福岡ミュージアムウィーク2015」(5/16〜5/24)が開催された。この期間は、美術館・博物館の一部展示が無料となる。今回は、福岡市博物館の企画展示「早良の青銅器と弥生墳墓」展と「常設展示」を観てきた。「早良の青銅器と弥生墳墓」では、吉武高木遺跡以降に発掘された早良(さわら)平野の初期青銅器や弥生墳墓を紹介していた。弥生時代の中期初頭(紀元前3世紀頃)、北部九州に銅剣、銅矛、銅戈といった青銅製の武器、あるいは銅鏡などが入ってくる。北部九州で武器の生産も始まり、金属器が本格化していく。初期青銅器の出土分布では、宗像の田熊石畑遺跡や唐津の宇木汲田遺跡などでも見つかってはいるが、吉武遺跡群のある早良平野は際立っている。初期の青銅器の生産・流通を考える上で重要とされる「岸田遺跡」、副葬品に鉄製品への変化が見られる「東入部遺跡」など、いくつかの遺跡が紹介されていた。こうした企画展でスポットライトがあたると、これまで白紙だった自分の中の地図がだんだん埋まっていく。

吉武遺跡群は、福岡市西区の早良平野を流れる室見川(むろみがわ)中流域に位置する。この遺跡群は、国史跡に指定された「吉武高木遺跡」、高木遺跡に隣接する「吉武大石遺跡」、大石遺跡の約250m北にある「吉武樋渡遺跡」で構成されている。なかでも高木遺跡は、三種の神器など、その圧倒的な副葬品から、相当の権力をもっていたことを伺わせる。高木遺跡の東側には回廊を廻らせた掘立柱建物も発見され、復元模型では二階建ての高床式の建物になっている。この高殿は祭祀場として使われたのではないかという。いづれにせよ「早良王国」と呼ばれるにふさわしい「クニ」だった。隣接する大石遺跡は、多数の武器、戦闘をうかがわせる出土品から、戦士の墓と推測されている。いつの世も権力には、その背景に強力な軍事力がある。吉武樋渡遺跡は、1世紀ほど後になるが、まぎれもなく吉武高木の血を受け継いでいるという。この樋渡遺跡の力が急速に低下するのに呼応するように「伊都国」と「奴国」が現れる。
大石遺跡


「聖なる弥生の丘」
早良王国から伊都国・奴国へ

(注:これは私の個人的なイメージです。学問的な裏付けはありません)

弥生時代中期初頭の日本では、「吉武高木」ほどの冨と権力を持つ「クニ」は他になかったと思われる。この地から日本の王権のしるしである三種の神器という伝統が始まる。古事記の「天孫降臨」に出てくる「立派な宮殿」とは、吉武高木の大型掘立柱の高殿である。吉武高木と樋渡の両方から「絹」が出土したことからも邪馬台国へのつながりを思わせる。「樋渡」へと受け継がれた血は、弥生時代中期後半に現れる「三雲南小路」「須玖岡本」へと引き継がれていく。同時期に突如現れ、双方とも三種の神器や、墓制などに吉武高木の文化を受け継ぐ。お互いに強力な政治力、経済力がありながらも、軍事的衝突はなく、むしろ協力していく。こうして吉武高木に芽生えた「クニ」の萌芽は、弥生時代後期の九州で、「邪馬台国」「伊都国」「奴国」へと発展していく。
樋渡遺跡
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「早良の青銅器と弥生墳墓」展 吉武高木遺跡と平原遺跡の位置関係が分かる鳥瞰図

(福岡市博物館展示パネルより)
 ↓ 私は以前、随筆でこんなことを書いた。
古事記と言えば、まずは「天孫降臨」である。・・・・『・・・・ににぎの命は高天原を離れ、天の浮橋に立ち、筑紫の日向の高千穂のくしふる峰にお降りになった。そしてこの地は韓国(からくに)に向かい・・・・立派な宮殿をお構えになった』。・・・さて、ににぎの命が降臨されたのは何処か。それは文字どうり「筑紫」(福岡)である。筑紫と韓国(からくに)が向かい合う、ということであるから福岡以外にない。福岡市と糸島市の間には、日向峠というのがある。この峠の近くにある高祖山との間に「くしふる山」がある。立派な宮殿とは、三種の神器が出土した吉武高木遺跡(福岡市西区)と考えるのが自然である。この遺跡から日向峠を挟んで西側には、伊都国の女王が眠る平原遺跡がある。

吉武高木遺跡の高殿復元模型
福岡ミュージアムウィーク・10円で買った絵葉書
福岡図巻・東西中島橋 福岡図巻・福岡城 洛中洛外図屏風(部分) 吉武高木遺跡・3号副葬品